今週のお題「雛祭り」
こんばんは。
コツメの母さん。です。
昨日のブログに私が子どもの頃実家にあった段飾りの思い出話を書きましたが、ブコメを読んでいるうちに段飾りについて興味が湧いたり、思い出したりしたことがありました。
私が小さい頃母親がよく「御殿の組み立ては大変だ。」と言っていたのですが、調べて見ると本当に
「御殿飾り」
というそうです。
↓こちらの日本玩具博物館のHPに分かり易く御殿飾りの説明がありました。
リンク先の説明を抜粋、御殿飾りの歴史をまとめてみますと…。
・桃の節句に雛飾りが楽しまれるようになったのは江戸時代。
・初めのころは 毛氈の上に屏風を立て回し、紙雛や内裏雛を並べた“ 屏風飾り ”や“ 親王飾り ”と呼ばれるものが一般的だった。(今現在でもよくみられる屏風にお殿様とお雛様のタイプですね。)
・江戸時代後期には 次第に、添え人形や道具が増え、江戸を中心に「段飾り」が発展。
一方、上方では「御殿飾り」が優勢。
・御殿飾りは、建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形を添え飾るもの。
京都の人たちが御殿を御所の紫宸殿(ししんでん)に見立てたところから、桜・橘の二樹も登場。
・御殿飾りが作り始められたころには、屋根はなかった。
・明治、大正時代には、職人が腕をふるった屋根付きの豪華な御殿飾りも作られるようになる。
・大正末から昭和時代初期にかけて、御殿飾りは京阪地域の都市部を中心にさらに広がりをみせ、コンパクトに収納できる一式も作られるようになり、百貨店を中心に頒布され、⼈口の集中した都市の住宅で歓迎される。
・戦中戦後の物資不足と社会の混乱によって、雛⼈形製作は⼀時中断。
・復興が果たされる頃には、関⻄から西日本一帯にかけてきらびやかな御殿飾りが流⾏し始める。明治・⼤正時代の豪華さとは質が異なり、金具で派手に装飾された賑やかな御殿。これらの多くは、静岡や名古屋など、中部東海地方で製作されたもの。京阪の御殿とはまた異なる美意識が興味深い。
・御殿飾りは明治・大正時代を通じて京阪神間で人気があり、戦後には広く西日本一帯で流行したが、昭和30年代中頃には百貨店や人形店などが頒布する一式揃えの段飾り雛に押されて姿を消していった。
以上です。
日本玩具博物館のホームページにいろいろな御殿飾りの写真が載っていましたが、東海地方の御殿飾りが我が家(静岡)の御殿飾りととてもよく似ていました。
特徴としては御殿の屋根にしゃちほこがのっているのですが、私の家にあった御殿飾りもしゃちほこがのっていたのです。
昭和30年代中頃には姿を消していったと書かれていましたが、検索してみると違うサイトでは昭和40年代の初め頃までは作られていたという記述もありました。
コツメの母さんは昭和46年生まれなので、まだギリあったのかもしれません。
みなさんのブコメを読んだり、御殿飾りについて調べながら思い出したのですが毎年組み立てて四苦八苦し、夫婦げんかしながら母は
「私はこの段飾りを買うのは反対したのにおばあちゃんとお父さんが見栄っ張りで買ったんだよ。」
というのがお決まりでした。
でもコツメの母さん、思い出したんです。
そのお決まりフレーズに加えて母は、
「おばあちゃんとお父さんがお店のショーウィンドーに飾られていたこの段飾りをどうしてもこれがほしいといって一点しかなかったのを買ったんだよ。」
と言っていたのを。
そうだ…もしかしたらお店の売り物ではなく、飾っていたのを買ったのかもしれません。
だとしたら昭和46年よりもっと前に作られたかもしれないなぁと思ったのです。
そして夫婦喧嘩の諸悪の根源、組み立て方の説明書がなかったのも、紛失したのではかくて最初からなかったのでは???と新たに思ったりしました。
ちなみに何年か前、似たような御殿飾りの雛人形をなんでも鑑定団の出張鑑定団かなにかのコーナーでだされていたのをみたことがあるのですが、価値はそれほどなく、値段はつかなかったかとても安かった記憶があります。
オークションやメルカリのような個人売買のサイトにも御殿飾りが売りに出されているのをみましたが、そんなに高額でもありませんでした。
ただもう作られていないので、今あるなら大事に飾ったり、資料館やひな祭りのイベントでみてもらうのもいいんじゃないかなぁ、と思いました。
残念ながらうちにはもうないですけどね…。
それからネエサンid:kyobachan!石野真子が歌っていたのは覚えているのですが何を歌ったのかは覚えていないんです。
季節的に春ラララ!でしょうかね???思わず真子ちゃんをウィキペディアで調べてしまいました。
それではおやすみなさい!
コツメの母さん。でした!