こんにちは。
コツメの母さん。です。
いつも読んでいただいてありがとうございます。スターやブコメ、読者登録もほんとうにありがとうございます。
今日は私が小学三年生の時に飼っていたハムスターの思い出最終回です。
その1その2はこちらです↓
オスのプチ、メスのパイのお話です。昨日は子宝に恵まれた話を書きましたが、まだ夫婦ふたりきりの頃のお話を書きたいと思います。
ある朝のことです。
小学校三年生の私はいつもとかわらず学校へ行く支度をしていました。
家を出る直前、ハムスターのカゴをのぞいてみると、元気なメスのパイ(後妻)がいました。
プチも元気かな…???
するとそんなに大きくないカゴなのですが、プチの気配がありません。
「あれ?プチ?プチ???」
どこを見てもプチがいないのです。
「お母さん!おかあさーーーん!プチがいない!!!」
と私は母を呼びました。
母はカゴの前にやってくると
「ほんとだ…いない。」
と言いました。
私はどきどきしてしまいました。
「どうしよう…どうしよう…今度はプチがいなくなっちゃった!!!」
その1にも書きましたが、私は最初に飼ったメスのプチを不慮の事故で亡くしています。
カゴからいなくなったら死ぬ可能性があるのです。
私はショックで涙がでてきました。
母は
「もう学校へいかないといけない時間だから。お母さん、さがしといてあげるから。」
と言いました。
私は重たい足取りで学校へいきました。
学校へついても悲しくて悲しくて気が気ではありませんでした。
一時間目が始まりました。
担任のきみこ先生の国語の授業だったと思います。
きみこ先生はあとすこしで定年を迎える先生で、戦前生まれの品のある厳しい先生でした。
女学校時代が戦時中で、女学校の帰り道に米兵に狙い撃ちされて耳に火傷のあとがありました。
朝ドラにでてくるような凛とした先生は、ジャージ姿もきりっとしていて髪型もきちんとされていました。
プチのことが気になるけれど、ぼーっとしていると先生に叱られる。と思いじっと授業を聞いていました。
すると廊下から電話の呼び鈴の音がしたのです。
私の小学校には廊下の壁に電話がついていました。その電話は先生しか使ってはいけない内線電話でした。職員室で電話を受けると各階の電話に繋いでくれるのです。
職員室に先生がいないことも多いので、各階にの廊下の壁に一台ついていました。
授業の途中でしたがきみこ先生は廊下にでると受話器をとり、何か話した後で受話器をおいて教室のドアのところまで戻ってきました。
「コツメの母ちゃんさん、ちょっと来なさい…。」
私はどきりとしました。
なんだろう…。
廊下に出るときみこ先生は私にこう言いました。
「今、お母さんから電話がありました。プチはいました。無事です。」
私はいた喜びよりもそんなこと(でもないんですが)で電話をかけてきた母に驚きました。それなのに動揺してつい
「どこにですか?」
と聞いてしまいました。
先生は
「カゴの中にある小さな鳥の巣みたいな箱のすみっこで新聞紙に埋もれて眠っていたそうです。」
と静かに言いました。
「あ…。ありがとうごさいます。」
私は放心状態のような感じでよろよろと教室に入り、席に着きました。
何事もなかったかのように授業は再開され、私はだんだん心が落ち着いて来ました。
ハムスターのカゴの中に、ハシゴでのぼる鳥の巣みたいな箱が付いていたんです。その中にめずらしくプチは入っていたんだなぁ…とぼんやり考えながらやはりプチより母の過保護っぷりにおどろき、はずかしくなってきました。
言っておきますが、うちの母は猛烈な仕事人間で子育てはちゃらんぽらんでした。
雨の予報がでていても傘をもたせてくれなかったし、びしょ濡れで帰って来た私を「バカだねー。」と笑う母でした。遠足のおやつを買い忘れたこともあります。
母のせいで私だけみんなと違ったことになっていることもしょっちゅうでした。
私が学校で恥ずかしい思いをしてもあやまりも同情もすることなく笑って済ませる母で、私はそんな母のデリカシーのなさを我慢しながらもうらむことがたくさんあったのです。(高校生くらいから自分でなんとかできるようになったけれど)
そんな母が、ときどき母心をみせることがありました。
それが結構ほかのお母さんたちとズレているんですよね…(^_^;)
だから憎めないんですよねー。
プチと母の思い出。
コツメの母さん。でした!
私の母のひどい話はこちらです。
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