コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐・社会人)、次女(コツメちゃん・高校1年生)の4人家族です。

訃報を伝えるニュースを見て思いました。

こんにちは。

 

コツメの母さん。です。

 

1977年に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親、横田滋さんが5日に亡くなりました。

訃報をニュースで聞いた時、なんとも言えない気持ちになりました。

拉致被害者の方々のために何もしていない私がこんな気持ちになっても意味ないけれど…。

かわいい娘を突然奪われて40年以上もの歳月を娘を取り戻すことに捧げたのに…。

会うことが叶わなかった無念さはいかばかりだろうと思います。

とても残念です。

 

今から5年くらい前ですが、横田滋さん、早紀江さんの講演会を聴きにいったことがありました。何度もニュースを通じて見ていたお二人でしたが、80歳を過ぎた滋さんはハキハキと話す早紀江さんに比べると対照的でした。

歩き方もご高齢ということもあり壇上の椅子のところまでゆっくりと歩き、早紀江さんが寄り添っていたのが印象的でした。

 

公演を聴きながら私は泣いてしまいました。何の協力もしていない自分が泣くのも失礼だと思いながらもどうしても涙がでてしまいました。

すると早紀江さんが、お話のなかで「泣いてはいられない。」と言ったのです。

お二人を見て、特に滋さんの歩いている姿を見て、私は早くめぐみさんに会わせてあげてほしいと思いました。

時間は有限だからです。本当に願いました。

 

公演が終わり、家に帰ろうと思い会場の入ったビルの玄関の方へ行くと横田さんご夫妻がいました。

玄関近くでボランティア団体が基金を集めるために絵葉書を販売していたのですが、その絵葉書をにこにこ話をしながら手にとって二人で選んでいたのです。

普通のおだやかで仲の良いご夫婦に見えました。ほんとに普通だったのです。それなのになんであんな理不尽な目にあわなくちゃならなかったんだろう…と思いました。

 

家に帰り、コツメの父さんに

 

「国にしか頼るところ、ないのかな。もう悪いことしている人でもなんでもいいから力のある人に頼んで助けてほしくなるよ。」

 

と言ったのを覚えています。

 

そして訃報のニュース。

テレビのニュースで久しぶりに横田めぐみさんに何がおき、横田さんご夫妻がなにをしてきたのかを映像で見ました。

 

するとこれを見ていた中一のコツメちゃんが

 

「こんなことが起きていたの?北朝鮮、こんな悪いことをしていたの?」

 

と驚いていたのです。

 

そうです。コツメちゃんは拉致問題を知らなかったんです。

私はびっくりしました。

コツメは北朝鮮という国があることも、北のリーダーの名前も顔も知っています。でも拉致問題を知らなかったのです。

 

コツメより8つ上のピヨ姐はもちろん知っています。

ピヨ姐が中学生の頃、横田さん夫妻がモンゴルでめぐみさんが産んだ娘さんとモンゴルで会うことが実現したりするなど、拉致問題がテレビやニュースでとりあげられていたのでわかっていました。

 

でも…8歳下のコツメちゃんは???

たしかにコツメちゃんがニュースをみるようになった頃、拉致問題ってあまり取り上げられなくなっていたのかもしれないとハッとしました。

 

 コツメちゃんからしたら隣の国が日本とだいぶ違うなとか、北のリーダーについてはある種強烈で個性的な、いわゆるキャラクターのように感じでいたのだと思います。

でもどのような歴史があって、どんなことが起きてきたのかを知らなかったのです。

 

年をとると1年なんて、5年10年なんて、あっという間になっていきます。

私も横田さんの講演を聴いたのがついこの間だと思っていたけれど、5年もまえだったなんてと思いました。

コツメの世代、コツメの子ども世代、伝えなければこうやってあっという間に世間では忘れられてしまう危険があるのだと思いました。

 

残された家族にとっては変わらず、毎日のことなのに。

 

横田さんご夫妻や拉致されてしまったご家族が講演や写真展など、一生懸命活動されているのは拉致被害者奪還を進展させることはもちろんだけど、このことを世間から忘れ去られないようにという思いもあるのだと思います。

 

自分自身何ができるのか分かりませんが、忘れないことやこれまで世界でどんなことが起きてきたのか、日本はどう関わってきたのかを子供に伝えることくらいはしなくちゃ…とコツメの言葉を聞いて考えた

 

コツメの母さん。でした。