コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐・社会人)、次女(コツメちゃん・高校1年生)の4人家族です。

平成23年(2011年)平成24年(2012年)の思い出

こんばんは。

コツメの母さん。です。

 

平成思い出シリーズ、今日は平成23年、24年を振り返っていきます。

 

平成23年の思い出

 

1月〜 ピヨ姐のクラス、とうとう学級崩壊

5年生の3学期になると、ピヨ姐の口から担任の先生が今日休んだとよく聞くようになりました。

なんとなく休んだ理由も苦しい感じで心配でした。

そしてとうとう学級崩壊。担任の代わりに臨時の先生がが入ることになりました。

 

こうなるのはなんとなく予想していました。

なぜなら冬休みの前にピヨ姐が気になることを言ったのです。

 

「クリスマスのお楽しみ会をクラスでやったんだけどね。先生が”こんな悲しいクリスマス会は初めてです”って悲しそうに言ってた。」

 

私は初めてその時にクラスがガタガタなんじゃないかと気がつきました。

 

聞けばまともに授業ができていませんでした。

数名の子がガヤをとばしたり、わざとカンペンケースを落としたり…そんな雰囲気だったのです。

そのガヤもセクハラまがいのことを言っていたようです。

 

前回のブログで少しだけふれましたが、ピヨ姐が加害者になり謝罪にいった相手の子もその数名の中の一人だったことがわかりました。

その子の授業態度に腹をたてたピヨ姐が注意したのに聞き入れてもらえず、ピヨ姐、度を超えてしまったのです。

度を超えて怪我をさせたピヨ姐が悪いのは承知です。

でも事件が発覚した時、ピヨ姐を問答無用で叱り飛ばしてしまったことを後悔しました。

 その時はクラスの状態が全然わからなかったからです。

 

遅れに遅れた算数の授業に時間をとられ、国語の「大造じいさんとガン」は授業二回のみ、三回めはテストでした。

そのため娘は初めて50点くらいだったかな…ピヨ姐、半べそをかいていました。

 

3月 東日本大震災

あの日、父さんは会社、ピヨ姐は小学校、コツメちゃんは私とリビングでアンパンマンをi padでみていました。

大きな揺れがきて、かたかたとゆらゆらと長く続きました。大きな船に乗り、波に揺られているような感覚です。

 

テーブルの下にもぐったけれど、あまりに揺れが長いので

「これは家の中にいてはいけないやつなんだろうか…?」

と何回も思いましたが、とにかくテーブルの下にいました。そして揺れがおさまりコツメを抱っこして外へでると向かいのおばさんが出てきました。

 

少し話をしていたとき、いたずらコツメがインターホンを押したんです。

するとインターホンがならない…。その時初めて電気が止まっていることに気がつきました。

 

ピヨ姐を小学校まで迎えに行き、暗い家の中で懐中電灯をだしてガスはついたけれど余震が続いていたため心配だったので、カセットコンロでご飯を食べました。

なんとなく緊張してしまっていて、自分の携帯電話でワンセグが使えることを忘れていた私は、布団の中で少しだけテレビにしてみました。

東北の風景が映っていました。火や煙が出ていました。小さい画面でよくわからないけれど、阪神淡路大震災の時にテレビで見たときと同じ風景でした。

 

父さんは夜中になって帰ってきました。

 

4月 ピヨ姐は6年生 コツメちゃんは幼稚園入園。

コツメの幼稚園入園は心配でした。普段の新しいことをする時にかかえる心配だけでなく、原発の放射能の拡散が気になってしまったのです。

園庭の土は大丈夫なんだろうか…いろいろ不安でしたが、コツメちゃん毎日泥だらけになって帰ってきました。

もうあんまり考えても仕方がない。ここで暮らしていくんだから!と思うようにしたのを覚えています。

 

そして6年生になったピヨ姐。この年のことはなかなか書く気になれません。

この1年ピヨ姐は学校で辛い目にあいました。いつか書こうと思いますが、その傷は未だ癒えていません。

実は私もです。未だに許せないのです。

今のピヨ姐の病気は6年生の時に起きたことと、高校1年生の時に起きたことが原因だと思っています。

私の傷と許せない心がいつか治るとすれば、それはピヨ姐が元気になって毎日が楽しいと思ってくれるようになった時ですね…。

 

7月 女子ワールドカップでなでしこジャパンが初優勝

ドイツ大会で優勝したなでしこジャパン。震災後、一番明るいニュースでした。

 

9月 島田紳助さん引退

突然でした。吉本興業から暴力団との付き合いを指摘されて引退を決意したと説明していました。

人気司会者でしたが、ちょっとしたところに怖さがある人でしたね。なんとなく周りのタレントさんもよいしょしている空気がでていました。

でもハラハラするけれど、それでも話術は天才的でひきこまれる面白さでした。

 

クイズ!ヘキサゴンの時はもう「この世をば〜我が世とぞ思う望月の〜」という感じでした。

ピヨ姐、ヘキサゴンが大好きで、初めてほしいと言われて買ってあげたアルバムがヘキサゴン(笑)

羞恥心とかいい曲でしたよね。

 

 

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 この年の漢字一文字は「絆」でした。

 

平成24年の思い出

1月〜受験突入

ピヨ姐の中学受験が始まりました。本命は2月になるのですが、1月も練習を兼ねて受験しました。

1月の受験の最中、コツメの父さんの父親が亡くなりました。葬儀の日はとても寒く、ピヨ姐はそのあと溶連菌に感染したりしましたが、無事に受験も終わりました。

 

コツメちゃん、葬儀の時は4歳でした。人が亡くなった時にどうなるのかをいまいちわからなかったコツメちゃんは火葬場で棺を見送るとすぐに私の手をひっぱりました。

「おそといく。」というのです。

死んだらお星様になると思っていたコツメは、火葬場で棺を入れ、スイッチをおしたら、煙突からどっかーんと宇宙へ旅立つのだと思っていたのです。

それでおじいちゃんが煙突から旅立つのを見たかったのだそうです。

 

4月ピヨ姐中学生になる。コツメちゃんは年中さん。

ピヨ姐、無事に中学生になりました。

入学式は緊張していてその日の夜熱をだしてしまいました。

 

5月 東京スカイツリーが開業

東京スカイツリー634メートル。むさし、です。テレビでも特集が組まれていましたね。商業施設であるソラマチのお店も大きな天ぷらがそびえたつ天丼とか、スカイツリーにあやかった商品の宣伝をしていましたね。

コツメの母さん、まだ一度もスカイツリーに入ったことがありません。

 

7月 ロンドンオリンピック開幕

一番記憶にあるのは開会式です。

ロンドン!という感じのしゃれた開会式でしたよね。Mr.ビーンも面白かったです。

誤審やハプニングも多かったロンドンオリンピック。

体操の内村選手や、柔道の松本選手、レスリングの伊調選手、吉田選手、ボクシングの村田選手など活躍しましたね。

 

8月 AKB48のあっちゃんが卒業

AKBといえばやっぱりあっちゃんですよね。今振り返っても卒業した人の中で1番印象的でした。

ピヨ姐の小学校の卒業式でもキンタローが着ていたような赤いチェックのスカートや、黒のブレザー、チェックの花のコサージュがついたAKBの衣装のような服を着る子が多かったです。

 

10月 我が家に家族が増えました。文鳥の文太郎です。

 

動物大好きコツメちゃんがお誕生日にどうしても桜文鳥がほしい!と言ってペットショップで選んだのが文太郎でした。

最初は灰色でくちばしも黒っぽくよわよわしかったのですが、どんどん元気になりさえずるようになりました。

そんな文太郎くん、今ではコツメを天敵認定。ピヨ姐を彼女認定しています。

ピヨ姐がくると「ぴーよろろ。」と歌うのに、コツメが現れるとくちばしをあけてくわっと威嚇します。

 

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10月は山中教授がips細胞でノーベル賞受賞。明るい話題でした。ノーベル賞って受賞した頃は騒がれますが、いつのまにか静かになってあまりテレビで見かけなくなりますよね。でも山中教授は今も時々お見かけします。

「令和」の時もインタビューされていましたね。

 

いろいろなことがあった2012年でした。

 

平成23年24年くらいになってくるとつい最近のような気もしますが、流行や出来事を振り返るとずっと前だなぁと感じます。

 

コツメの母さん。でした!