コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐・社会人)、次女(コツメちゃん・高校1年生)の4人家族です。

平成11年(1999年)の思い出

こんばんは。

 

コツメの母さん。です。

平成思い出シリーズ、今日は平成11年です。

コツメの母さん、28歳です。

この年は人生の一大事のひとつが起きた年でした。

 

スピード写真屋さんのパートがたのしい。

コツメの母さん、昨年同様、平日はスピード写真屋さんでパートをしていました。

最初は受付とフィルムを現像する仕事をしていたのですが、慣れてくると今度は現像したフィルムをプリントする仕事も教えてもらい、証明写真を撮るお仕事以外はたいていできるようになって来ました。

 

プリンターを使えるようになると他のパートさんもそうなのですが、自分の撮った写真は自分でプリントしたくなるわけです。

どこかに行って写真を撮って来た時はパート先で現像とプリントするのも楽しみの一つになりました。

現像が済むとフィルムを吊るすクリップに「自分でプリントします」とメモ書きをいっしょに挟んで、プリンター係になったときにプリントしていました。

 

私がパートしていた写真屋さんのプリンターは、明るさや色味を調節していました。

プリンターに現像したフィルムを通すと、目の前の画面に出来上がり予定の写真画像がでます。

その画像が明るすぎたり逆に暗かったりしたらスイッチを押して明るさを補正して見やすくしたり、青みが強かったら青と反対色の色味を強くするスイッチを押して青みを抑えたりしていました。

 

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↑上の写真は私が自分で撮ってパート先でプリントした写真です。まぁ…普通の写真ですが(汗)

 

一番上の写真の人形は「テレタビーズ」というイギリスの子供向け番組のキャラクターで、1999年の4月から日本でも放送されていました。

かわいくて大好きだったんです( ´ ▽ ` )

左から

ティンキー・ウィンキー、ディプシー、ラーラ、ポーといいます。

今はやってないのかな…。一時期グッズもたくさんでていました。

 

だんだんパートさんも学生バイトさんも写真に興味が湧いてきてしまい、自分の撮ってきた写真を披露しあったりして楽しくなった頃…。

 

パートの帰り道のSEIYUで晩御飯の材料を選んでいた母さん、生まれて初めて

 

「なんか…キムチが食べたい…あと、もずく酢を食べたい…」

 

という強い衝動に駆られます。

 

私、キムチももずく酢も家で食べる機会がなく、外食先でちょこっとセット料理の隅に出た時につまむくらいでした。自分から買ったり食べたいなんて思ったことがなかったのです。

 

おかしい、おかしいと思っていたら

 

おめでた

 

でした。

最初は、冷蔵庫の匂い(いつもは無臭に感じていたのに)が気になり始め、野菜室の匂いで吐き気、スーパーの野菜売り場で吐き気、と、どんどんへんな感じになってきました。

具合が悪い日も多くなり、写真屋さんはずっと立ち仕事だし重たい荷物をもつことがあるので、寂しかったのですがパートをやめることにしました。

1999年初夏のことでした…。

 

7月 空から恐怖の大王がおりてこなかったよ…

アラフィフの皆さんでしたら子供の頃一度は恐怖におののいたのではないでしょうか。

そう!

ノストラダムスの大予言です。

小学生の頃、年の離れたお兄ちゃんのいるお友達の家にあった五島勉(ごとうべん)の「ノストラダムスの大予言」という本。

 

 

表紙からして怖い!

もう恐怖の大王がなんなのか。

恐ろしい病気なのか、戦争なのか、宇宙人なのか、核爆弾なのか…。

とりあえず1999から1971をひいて

 

「28歳までかぁ…。まぁまぁ生きられるけど、いやだな…」

 

と思った小学生のコツメの母さん。

28歳ってだいぶ年寄りって感覚だったんでしょうね…。

とにかくはずれてよかったです。

 

この夏は具合が悪くて食欲がなかったのに突然どうしてもお雑煮を食べたくなって食べたら吐いたり、何も食べたくない…のにもかかわらず、夕方テレビでKinki KidsのオーザックのCMを見たらどうしてもオーザックを食べたくなったりしていました。

 

世の中は通り魔事件があったり、羽田千歳行きの飛行機がハイジャックされたり、桶川のストーカー殺人事件があったりと物騒な事件もおおかったです。

東海村の臨界事故もありました。

 

11月 東京都文京区で二歳の女の子が行方不明 文京区幼女殺人事件

 

この事件はとてもショックでした。そのころの私は妊婦さんになり、区役所の母親教室で知り合った友達も何人かいて、ときどきお茶したり、教室へ通ったり、産院の説明会や講習会、運動などもいっしょにいったり、メールのやりとりもしていたからです。

こういうおつきあいが初めてで緊張していたこともあり、この事件をきっかけにどこでどうよからぬ感情を相手にもったりもたれたりするのか分からないな…。気をつけないといけないなと思いました。

 

文京区幼女殺害事件とは

1999年11月22日、文京区音羽の幼稚園の園庭でAちゃん(当時2歳)が行方不明になりました。その3日後、Aちゃんの母親と親しいM子(当時35歳)が逮捕されたのです。M子はAちゃんの母親の目を盗んでAちゃんをトイレに連れ出すと、マフラーで首を絞め殺害。遺体を静岡の実家の庭に埋めたのでした。

 

当時、お受験でAちゃんのお家は合格していた、という話もマスコミの取材から出てきて、お受験殺人事件ともいわれたり、被害者のAちゃんのお母さんがM子をいじめたような報道もされたりしていました。

でも騒ぎが過ぎ、時間が経ち、裁判の様子などを読むと明るくてコミュ力の高いAちゃんのお母さんにたいしてのM子さんの思いが強すぎた感じがしました。

Aちゃんのお母さんにとってM子さんはたくさんいる友達の中の一人でも、M子さんはそうでなかったのかもしれません。

 

当時の私だって、学生時代から付き合っていた友達でさえも、仕事がうまく行っているかどうかや、恋愛がどうか、結婚の時期などいろんなズレができ始める頃で、どちらからでもなく連絡をとらなくなったりする友達もいました。

喧嘩したわけではないけれど、なんとなく間があいてしまったりして。

40歳になるとまた連絡取り合ったり。

 

そういう微妙な差や違いを感じてしまう年頃に、心がいきすぎると最悪なことが起きたりしてしまうのかもしれないです。

これから母親になる私にとってはショックな事件でした。

 

年末 ある意味私の心に残った流行語大賞 ブッチホン

この年の年間流行語大賞。

調べてみると

「雑草魂」読売巨人軍の上原選手

「リベンジ」西武ライオンズの松坂選手

そして

 

内閣総理大臣小渕さんの

「ブッチホン」

 

「ブッチホンて、1っっっっっっ回も聞いたことないけど!!!」

 

と発表された時、思ったんです。

今まで聞いたことない、活字として見たことがない、自分の口から一回もでたことのない流行語大賞は初めてかも!って思いました。

ブッチホンとは首相自らかける電話のことです。

逆にある意味一番印象に残っている流行?語です。

本当に流行していたんだろうか???

 

そんな1999年。

コツメの母さんでした。