コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐・社会人)、次女(コツメちゃん・高校1年生)の4人家族です。

子供の頃から家を出るまで、毎年クリスマスは養護施設だった思い出。

こんばんは。

 

コツメの母さん。です。

 

今日はクリスマス。昨日も書きましたが私のサンタは子どもが大きくなったので卒業となりました。

うちは子どもが八つ離れているのでサンタ歴が細々と長かったです。

ぐうたらなので、イブに子どもと寝落ちしてしまい、朝の6時ごろ

 

「や、やべー。さむさむ…」

 

と思いながらあわててツリーの下におくというのも毎年恒例でした。

 

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さて、タイトルを見てちょっと

 

「えっ。」

 

とされた方もいらっしゃると思いますが、私のクリスマスの思い出です。

昨日も書きましたが私の両親はかなり適当育児だったので、クリスマスプレゼントってある年もあればない年もあったように思います。

サンタさんを信じる、信じないというロマンな文化も家にはなかったです。

 

でも子ども時代の私は毎年楽しいクリスマスを送っていました。

 

私の両親は施設で働いていました。

私は物心ついた時から近くにたくさんの小学生から中学生のお兄ちゃんお姉ちゃんがいたのです。

 

私は幼心にだんだんとなにかわけがあってお兄ちゃんお姉ちゃん達は両親の働く施設で暮らしているのだと思いました。

 

小さい頃の私に両親が口をすっぱくして言ったのは

 

「お父さんとお母さんに休みの日にどこかで遊んでもらったとか、買ってもらったというはなしは一切してはいけない。」

 

ということでした。

 

それは絶対に守らなければいけない約束でした。

 

施設にいた子ども達は家庭になにかしらありました。

両親がそろっている子はめずらしく、父母がいない、いても問題がある、など…複雑な環境で育っている子ばかり。

 あしたのジョーとかタイガーマスクの世界にちょっと似ています。

 

「お兄ちゃん達は小さい頃から大変な目にあっている。だから両親がいて学校に通っているコツメの母ちゃんを見ると、それだけでうらやましいんだよ。」

 

と私は聞かされて育ちました。

 

仕事を引退した母は

 

「あんたもかわいそうだったね…。いつもお兄ちゃん、お姉ちゃん達のところへいってたから、母屋に戻ったとき、学校へ行く前のあんたがにこっとわらって”時間なかったから弟に食べさせたよ”ってご飯茶碗にお醤油をかけた跡があったときはお母さん、仕事やめようかと思った。」

 

と最近言ったことがありました。

聞いていると切ないですが、覚えてないので「あぁ〜そうだったんだ。」と笑っていました。

 

そんな今思えば普通でなく、大変だったこともたくさんあった生活でしたが、たのしいこともたくさんありました。

 

お兄ちゃんたちとの暮らしは「生活の基本」を教える場所でもあったので行事というものがたくさんあったのです。

お正月は餅つき、豆まき、春はお花見、子供の日は菖蒲湯をつくったり、施設の外へは基本出られないのですが夏は潮干狩りにいったりしました。秋はお月見、耕した畑でとったさつまいもを亡き父が毎日焼き芋を庭で焼いていました。

そういう場所に私は時々おまけでついて行ったりもしました。

 

そして冬。

クリスマス前になるとみんなで出し物を決めてクリスマス会に向けて演劇をやるのです。

私はその練習を見ることと、本番で他の施設のみんなが練習して来た劇をみるのを毎年楽しみにしていました。

 

11月くらいからみんなで何をやるのかを決め、台本を書き、母がそれをチェックしてガリ版で台本をすります。

毎晩みんなで台詞合わせをしたり、昼間の空いた時間には衣装や小道具を作りました。

私はたまに

「おかあさーん。」

と言いながら母が生活をみているお兄ちゃん達のいるところへ遊びに行き、母の後ろで演劇の練習をみたり、小道具をつくるのをのぞいていました。

クリスマス会が楽しみでウキウキしていました。

 

クリスマス会の日、私は急いで学校から走って施設に向かい、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちの発表を見ました。

いまでも覚えています。

 

そのときはケーキやご馳走がでて、最後にサンタさん(父の同僚)が大きな袋にプレゼントをいれて現れます。

たいてい、施設のみんながリクエストしたポンジャンやオセロ、ボードゲーム、スポーツ用品でした。

私はお正月に時々遊ばせてもらうのを楽しみにしていました。

 

そんな感じで私のクリスマスは楽しいクリスマスだったのです。

 

いま話題の南青山のニュースを見ていると昔を思い出します。

私の両親が働いていた施設も児童相談所とは密接な関係でした。

 

おそらく、あのニュースの取り上げ方だと、児童相談所がどういうところか、一時保護室とはどんなところなのかいまいちわかりにくいですよね。

 

児童相談所にくる人は赤ちゃんから大人まで様々です。

児童相談所はその訪れた人がどうしたらいいのか、その人その人に必要なしかるべき場所を見つける所です。

 

赤ちゃんだったら受け入れてくれる乳児院だったり、虐待されてこれ以上親のそばにおいておけないと判断したら児童支援養護施設、夫からのDVに苦しんでいる母子が自立できるまでいられる支援施設など、しかるべき場所を探すのが児童相談所なんだと思います。

見つかるまで一時預かる場所が南青山の児童相談所の中にできるというだけなのです。

 

なので、

 

レベルの高い公立に通わせたいと思い、億支払って家を建てたお母さんの小学校に一時保護の子は通いませんよ。

 

あの質疑応答の際に回答されたかどうかがニュースで放送されないので気がかりです。

ショッキングな発言ばかりとりあげているようにも感じます。

 

あととんでもない非行少年がくるのでは…というのもあくまで一時保護した後は、私の住んでいたような施設にくることになるのです。

南青山にずっと暮らすわけではありません。

 

もう少しテレビも

 

ネギを買うのも紀伊国屋

とか

ランチ1600円

とか

億払って住んでいる

 

という面白い発言ばかりでなく、

違うことを放送してほしいです。

 

確かに児童相談所には心配するような問題もはらんでいると思います。

たとえば一時保護している子どもをとりかえそうと問題のある親や大人が突撃してきたり、一時保護室にいるのがいやで抜け出した子が近隣に迷惑をかけるなどです。

ないとはいえません。

 

でも

私はあの場所に児童相談所ができることは良いこともたくさんあると思いました。

虐待件数も増えているので施設が増えることは救ってあげられる子どもが増えます。

アクセスがいいので相談に行きやすいというのもあります。

大学や教育施設も多いので、連携することで現状を知るなど、勉強する機会もできるのではと思うのです。

 

クリスマスから話があっちこっち行きましたが、最近そんなことを思い出していた

 

コツメの母さん。でした。