コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐・社会人)、次女(コツメちゃん・高校1年生)の4人家族です。

結婚式の思い出と遠き山に日は落ちて。

こんばんは。

コツメの母さん。です。

 

昨日は私と父さんが結婚式を挙げた日でした。

もう21年前になります。

 

結婚式はある意味私達らしい式でした。

まずコツメの父さんには

 

こんな式を挙げたい!

 

という理想の結婚式のプランなどありませんでした。そこにまったくこだわりがない人でした。

 

そして曲がりなりにも女性ですから私はちょっとはありました。

例えばあの頃は今とは違って式場やプランの選択肢が少なかったのですが、おいしいレストラン的な結婚式というのもポツポツあったりして、そんなところがいいかな、とか少しは思っていたのでした。

 

が、しかし!

 

長男長女の結婚式で両家初めて(父さんのお姉さんは嫁いでいたけれど)のイベントということでコンサバ中のコンサバの、口癖は「粗相があってはならない」でおなじみ(←我が家だけだけど)のお義母さんが

 

「静岡から都心(父さんが東京で働いていたので式は都心で考えていた)に親族が移動するのに迷子になったり、天候が悪くなったら雨に濡れて大変だから困る。」

 

というので、ぶれぶれの私は『お義母さんの言うことも分からんでもないなぁ…』と思ってしまい、結局新幹線の駅から濡れずにいけるような式場でご飯もおいしいと評判だったところに決定したのでした。

 

そしてカンのよい方はお気付きですね。

10月10日は1964年東京オリンピックの開会式の日でありますが、突出して晴天になる確率が高い特異日と言われる日なのでありまーす。

 

なんやかんやで結局のところ、まったくもってお洒落なこだわりには無縁の、王道な式となっていきました。

 

仲人さんは父さんのお世話になった大学の先生に引き受けていただきました。

 

引き出物はせめてかわいくしたいなと思って紅茶やクッキーとか考えていたのですがちょっと小さい声で言ってみたものの・・・

 

そこは王道ですから!

 

かつお節とバウムクーヘンとカタログ(遠方から来た方の荷物がなるべく重たくならないように)

 

になりました。

 

(ちなみにかわいいお菓子は若者しか集まらない二次会で用意したコツメの母さんでした。)

 

とにかく遠方と天気中心で考えられたお式となりました。

 

ご飯は父さんが、

 

和食かなぁ、洋食もいいな。え?和洋中があるんですか!?それで!!

 

となりました。

 

式後に父さんの会社の同期が

 

「すごくお料理が美味しかったよ!あれにカレーが入って和洋中印だったらもう最高!」

 

と言われたことがうれしかったです。

 

衣装も事前打ち合わせで両家の母が参加したのですが、私は緊張してゆっくり選べず、

「これにする。」

とささっと選んだのですが、父さん、自分の衣装合わせになったら女子か!?というくらい着替えるのです。

 

びっくりしました。

まぁ、あんまり驚かないけど!

 

とにかく当時はコツメの母さん、ちょっと自分の意見よりも招待する人や親族中心で考えた式になってしまったのでコツメの父さんと二人になると愚痴っていましたね。

まだお義母さんに強く自分の思っていることを言うことができなかったしね( ´ ▽ ` )

 

でもそんなにいやでもなく、まぁ、よかったんじゃないかなと思います。

私のおばあちゃんもあの頃は生きていたので静岡からくることができたし、駅からすぐだったから移動もスムーズにできました。

長年経験を積んでいるお義母さんの意見は間違ってはいなかったですね。

 

さて、そんな父さんにまつわる思い出の曲があります。

 

私はコツメの父さんとマンモス中学校で同級生だったのですが、中学校二年生の時にわたし、コツメの父さんのことが、す…す…好きだったのです。

 

同じクラスになったことはなかったのですが、学習塾でいっしょでした。

中二の春、一度だけコツメの父さんと隣の席になったのです。

 

この塾、個人塾だったのですが勉強オタクの熱心な先生でとても厳しかったのです。

先生は1学期の最初に家でやる為の問題集を10冊〜15冊くらい配布しておきます。

そして、中間や期末テストの前になると先生が家でちゃんと問題集を解いてあるかどうかを全てチェックする日がありました。

チェックの日は全ても問題集とノートを持って行き、先生が座席を回って2時間かけてチェック。

あまりにやっていないと棒でお尻をたたかれます。

 

私は先生に言われた範囲をどうにかやっていった(多分徹夜)のですが、隣のコツメの父さんをのぞくと、一ページ目から丁寧な字で全てやってあるのです。

先生が指定したところ以外も全てでした。

 

「コツメ父さんくん、これ、全部やってるの?すごいね。なんでやってんの?先生ここからここまででいいって言ってたのに。」

 

と思わず聞いてみました。するとコツメの父さんが

 

「だって、もったいないでしょう?」

 

とニコッと笑ったのです。

 

な、なんていい子なの!?こんな人いるんだ!

 

とちょっと感動したのです。

 

しかも60人くらいいた塾なのですが、中間期末テストの前の塾の日に先生が作るオリジナルの数学のテストをするんです。それが量も多くてかなり難しい。

何点以上は合格と採点後に先生が発表するのですが、いっつも合格者はコツメの父さんひとり、でした。

地元の大学の付属中学やお金持ちが住む地域の中学の一番の子が集まる塾で、市内の共通テストの学校全体の平均点がワーストスリーに毎年入っている学校にいるコツメの父さんが、いっつも一人で合格だったのです。

 

なんていい子なんでしょう。問題集をきっちりやっているからですね。もったいなくて。

 

と私は思いました。

 

そして不合格者はその週末の日曜日に塾へ必ず行き、補講と再テストがあるのですが、

なぜだか

 

コツメの父さんも必ずきてニコニコ座っているのです。もったいないからですね。

 

私は「こんないい息子さんはみたことがない。」と思いちょっと好きになっていたのでした。

 

さて、我がBE BOP JUNIOR HIGH SCHOOLにてコツメの父さんはボンタンではない数少ないぴちぴちのズボンをはく真面目な男の子だったため、いつも熱血教師の横に立たされる副担状態でした。

 

そして夏、林間学校ではコツメの父さんは学年のリーダーとしてまとめ役です。

私は遠目で「がんばっているわ…」と母のように思っていました。

夜になり、キャンプファイヤーとなりました。

真ん中には燃え盛る火。

そこへ400人の同級生たちがぐるりと火をかこみ、先生が扮する火の神、山の神を迎えます。

 

何をやったか忘れましたが、司会進行は先生と並んで直立不動のコツメの父さんでした。

そしてとうとうあれがやってきました。

みんなで歌を歌うのです。

コツメの父さんが、マイクをもっていいました。

 

「それでは遠き山に日は落ちて、を歌いましょう。」

 

だがしかしです。

不良ばかりの学校ですし、みんなお年頃ですから恥ずかしくてほとんど歌いません。

私も小声でときどき歌うくらいです。

 

ところが父さんは代表ですからマイクを持って歌います。

 

とーーーーおきぃーーーーやーーーーまにぃーーーーひーーーはおーーちてーーーー

 

響きます。とにかく響きます。

私は夜空を見上げました。

私の目に映った夜空の端にはポールの上に大きなスピーカー。

そのスピーカーから音程はあやういけれども真面目に情感をこめてうたいあげる父さんの声がキャンプファイアーの煙とともに天へ天へと舞い上がっています。

 

私は自分のことのようにはずかしくなりました。

 

「なんで父さんはいつも熱血先生のいいなりなんだろう。かわいそうだ。あぁ、恥ずかしい。はやく終われ、遠き山に日は落ちて。早く終わってあげてー。」

 

と祈りました。

 

そして歌も終わりにさしかかりました。

やっと終わる…。

 

ホッとした私が空から目を落とし、遠き父さんを見ると、あの熱血教師が父さんの耳元でなにかをささやいているのが見えました。

うなずく父さん。

そして下ろしていたマイクを再び口元に持っていくと、父さんは言いました。

 

「三番は、ハミングでうたいましょう。」

 

は?三番って予定にないよね!?なに吹き込んでんだよ!!何吹き込まれてんだよ!!だれも歌ってないのに!!どんだけ素直!?

 

と軽く怒りを覚えると同時に聞こえてきたのは父さんのハミング。

 

「むーーーーーむむーーー むーーーーむむーーーー むーーーむむむむーーー」

 

さらに情感をこめたむーむーむーが夏の夜空にこだましたのでした。

そして父さんはしっとりとしっかりと、一人でむーを歌い上げたのです。

 

いい子って大変だなぁ…。私にはできない。

 

と思いました。

 

いまでもコツメの父さん、ハミングで歌ってというと歌います。

 

でも遠き山に日は落ちてっていい曲ですよね。

 

お付き合いありがとうございました。

 

コツメの母さん。でした!

 

 


遠き山に日は落ちて(家路)