こんばんは。
コツメの母さん。です。
明日は母の日ですね。
コツメの母さんの家は、「母の日」は必ず両方の実家の母にカーネーションの鉢植えを贈っています。(誕生日はしないけど)
今年もだいぶ前に予約していたカーネーションが昨日届いたらしく連絡がきました。
そして本日は「ごめんと言わない母・全三部作」の後、なんとコツメの母さんの母さんがあやまった日がやってきたことを書きたいと思います。
それは本当に突然やってきたのでした。
このブログでは母にまつわる3つの出来事を書きました。
母をたずねて三千里ぬりえ事件
キティちゃん事件
スイミー事件
です。
その後私は当然いろいろなことがありましたが、すくすくと成長しました。
私も大きくなったので母の力を借りずともなんとかできることの守備範囲が広がっていき、私は母のやらかしによって恥をかかされるであろう事柄を未然にふせげるようになってきていました。
そして私は東京の短大、そのまま就職…と家族と離れて暮らすようになったのでした。
年月は流れ、私が24歳くらいの時、母が突然
「私、仕事辞めることにしたんだ。」
と言ってきたのです。
「えー!あんなに好きだった仕事を???」
と私はびっくりしたのですが、母はさっさと仕事をやめ、結婚してからずっと暮らしていた塀の中の施設から普通の戸建ての家に引っ越したのでした。
普通の家、というのは仕事をやめる何年も前に両親は土地を買い、家をたてておいたのです。その空き家にやっと引っ越したのでした。
母はアラフィフで初めて専業主婦になったのです。
…と思ったらしばらくすると母はやっぱりパートを始めていました。
今度は保育園の保育士さんです。
少しハンディのある子や、赤ちゃんのお世話をするようになった母。
私に対してはあれでしたが、実は母は子どもが大好きで遊ぶのもめちゃくちゃ上手なのです。
そして同僚の正規職員の保育士さんともだんだん友達のようになって、
休みになるといつのまにか保育士さんたちが母の家に集まってお茶会やら食事会をするようになっていました。
母は結婚して20年以上を経て、やっと普通のパート主婦生活が始まり、いっしょにケーキを食べるお友達ができたのです。
電話で話す母の声は、施設の時のプレッシャーから解き放たれてなんとなく楽しそうに感じました。
そしてある時の電話で母が
「コツメの母ちゃん、お母さん全然気がつかなかったんだけど小さい頃いろいろ悲しい思いさせちゃったんだね。ごめんね。」
と言ってきたのです。
『え?いまなんて言った?ご、ごめんね・・・?ですと!?』
と私はびっくりしました。
あれほど謝らなかった母が、です。
まさか母からごめんが出るとは…。しかもなんで今さら…?
母から聞いて理由がわかりました。
実は母の保育士友達というのが、みんな私に近い年齢の子だったのです。
普通の家庭で育ってきた私と同じ年齢の子とお茶しているうちに
スイミー事件のことや私が小さかった頃のいろんな話を母はしたみたいです。
それを聞いた保育士さんたちから
「(ひきぎみで)えぇ〜…」
「それはかわいそう!!」
「私だったら怒る!!」
と言われたらしく、初めて母は自分のしてきたドジがそんなにひどいことだったんだと分かったようでした。
私はまったく記憶がないのですが、
「お母さん、忙しくてさぁ。。。あんたが小さい頃、朝とか急に仕事場いくことになって、しょっちゅう家を空けちゃって。仕事が終わってあわてて帰ってくるとあんたがにこにこしながら、”おかあさん、○ちゃん(弟)がお腹空かせてたから、私、ごはんをよそってお醤油かけてたべさせといたよ”って言ったんだよね。あの時は仕事やめようかなってお母さん思ったんだよね。」
と母に言われ…。
記憶がないから人ごとのように私は
『なにそれ…かわいそうな姉弟…。切ないお話だなぁ』
と思いました。
まぁ、突然で時間も経っていたけれど「ごめんね」と言われたらなんだかもやもやが浄化されたような気がしました。
本当にいろいろやらかした母でしたが同時にするどくてたのもしい母でもあったのでプラマイゼロでやってきたのです。
最近も突然電話をかけてきてはいろんなことを言ってきます。
「コツメの母ちゃん、聞きたいことあるんだけどさぁ。ワッキーとヒデのコンビ名が思い出せないんだよ…。」
とか
「昨日のクイズ番組で結局誰が優勝したのか調べといて。寝ちゃったんだよ。悔しい。」
とか
「あのチョイースって叫ぶ卓球の男の子ってハーフなの?」
とか。
「チョイースじゃなくてチョレーイだよ。なんで試合で点入れてラフに挨拶するんだよ!」
と言うと
「あははははっははは。じゃあね!」
と切られます。
相変わらず置いてかれる感があります。
コツメの母さんでした。