こんばんは。
コツメの母さん。です。
お向かいのおばさんに桃の枝をいただきました。
もう何年もこの季節になるといただいています。
いただいた時はつぼみだけだったのに、ふとみたら咲いていました。花はいいですね。
今年はなぜだかお雛様を出すのが億劫で、まだ出していません。いつもはお雛様の隣においているのに。明日、明日こそ出そうと思いました(´・ω・`)
今日は2月26日。2.26事件の日ですね。
2.26事件は1936年の未明、「昭和維新」を掲げた陸軍青年将校らが1400人もの兵士を率いて政府の要人を襲撃、殺害したクーデター未遂事件の日です。
もう亡くなった大正生まれの祖母が元気だった頃、
「若い頃に東京に憧れてね。上京して大きな家の女中さんをしていたことがある。」
と話してくれたことがありました。
「おばあちゃんも東京に憧れるなんてことがあったんだね。」
と言ったら
「2.26事件の日、雪が降ってすごく寒くてまだまっ暗いうちだったんだけど、外からたくさんの人の足音がザッザッザッて聞こえてね。何か恐ろしいことが起こったのかもしれないって思って、ものすごい怖かったっけ…。」
と言われ、だいぶ驚いたことがありました。
日本史で習ったこともおばあちゃんにとってはリアルなんだなぁと思った出来事でした。
私はものすごく戦争が怖く、そのことを考え始めると夜眠れなくなるという神経質な子どもでした。
おばあちゃんは戦争の始まる頃はもう田舎に戻って見合い結婚し、お腹に父がいたのですが、夫(私の祖父)は戦地で病死してしまいとても苦労したようです。
戦争が始まってすぐの頃だったので、遺品やお骨もしっかり帰ってきて、遺品の中に父の写真(生まれておばあちゃんが送った)が入っていたのを見ておばあちゃんは泣いたそうです。
私は想像したらものすごく怖かった質問をおばあちゃんにしてみました。
「おばあちゃん、空襲警報がなると怖くなかったの?」
すると
「よく鳴るんだけど来ないから慣れちゃった。空襲警報がなると仕事場から家に帰れるから、鳴ると家に帰っていた。」
と言われ
「そ、そうなのか。」
とちょっと拍子抜けしたのを覚えています。
そして印象に残った話しは
「戦争中、A型って言われてたのに、戦争が終わったらO型だった。」
と言う話です。
この話、華麗なる一族にもあったなぁと思いました。
戦時中の血液検査はミスが多かったのですかね。
祖母は10年前に亡くなりましたが最後まで頭はしっかりしていて、最後に病院へお見舞いに行った時、コツメの父さんを見ると
「父さんくん、また…肥えたね。」
と言いました。
それが最後の言葉でした。
2月26日になるとおばあちゃんを思い出す
コツメの母さん。でした!