コツメの母さん。今日は何かやってみよう。

日々の出来事を書いていこうと思います。家族は私、夫(コツメの父さん。)、長女(ピヨ姐)、次女(コツメちゃん)の四人家族です。

私はおそらくHSPです。前編

こんばんは。

 

コツメの母さん。です。

いつにも増して自分語りの一人よがりな日記になると思いますがどうぞよろしくお願いします。

 

はてなブログを初めて新しい言葉を知ることがたくさんあるのですが、そのなかのひとつに

HSP(ハイリーセンシティブパーソン)

がありました。

 

HSPとは敏感で繊細、ちょっとしたことで傷つきやすい人のことをさします。

 

自分で繊細って…と思われるかもしれませんが、(自分でもそう思う)おそらくそうです。

今朝その話をコツメの父さんとしていました。

それはちょっとした思い出話からなのですが…。

 

以前も書きましたが、15年前、父さんが留学することになり、ちいさいピヨ姐をつれてLAで1年間暮らしたことがありました。

私はアメリカ、しかも西海岸というなんだかとってもキラキラしてウェイウェイした(あくまでもイメージです笑)場所に行くのがいやでいやで仕方ありませんでした。

 

でも父さんと離れてピヨ姐(こちらも敏感なある意味問題児。周囲の人間にはわかってもらえず私一人で悩んでいました。)と二人きりで一年日本で暮らすのは心細く、家族でいた方がいいと思い渡米したのです。しかも会社の条件が家族一緒に、でもあったので…。

 

今まで生きてきた48年の中で、本当に悲しく悔しく思った出来事ワースト10にたったの一年で2出来事がランクインしたアメリカ生活でしたが、アメリカのことは大好きになりました。

それはほんとです。いつか書きたいのですが、ダメダメなところはいっぱいあるけれど、本当にすばらしいと思うこともたくさんたくさんある国でした。

 

でも、あの頃はまだ30代前半だったので気が付きませんでしたが、今思えばあの1年間は相当なストレスだったのです。

 

父さんがアメリカにいったのはある学位をとるためでした。会社が社内で公募して1年間の留学費用をだしてくれるのですが、父さんはそれに応募し、選ばれ、その費用をつかって学位をとれる大学を受験したのです。

 

父さんは普通の家庭に生まれ、地方の田舎の高校から東京の大学に入り就職したので、英語については読み書きはできてもリスニング、スピーキングが全くといっていいほどできませんでした。

そのため、アメリカの大学院受験はとても大変そうでした。

英語の授業を受けるという条件付きでしたが合格。

 

アメリカへ行くと、クラスメイトには日本人が結構いました。

ほとんどの人がきっと恵まれたバックグラウンドがあるんだろうなという人ばかり。

多くが帰国子女だったり、商社マンで英語を普段から話している人、海外経験者ばかりだったのです。(父さんみたいな人の方が少ない)

 

みなさん他の国からきた外国人やアメリカ人のクラスメイトとのコミュニケーションが父さんから比べるとずっと上手で、もともと日本にいた時だって自己主張が苦手な父さんのアメリカでのスタートは誰よりも遅れていました。

そのため、毎日ものすごい勉強をしていました。

 

私は三歳のピヨ姐と、とにかくとうさんの邪魔をしないよう、トラブルを起こさないよう、ずーっと気をつけて生活していました。

私は英語が話せず、自動車も運転できませんでした。おまけに小さい子持ち。

 

他の奥さんたちは、英語が話せたり、積極的な性格だったり、車を運転できたり、すぐに友達になって遊んだりできるひとでしたが、

 

私はそれがとっても苦手だったのです…。

 

子育てはお互い様だから、も苦手だったので心を開くことも開かれることもできませんでした。

日本にいた時もアメリカでも、お互い様だから甘えてよと言われてもできない性格なのです。

 

もともと狭い世界で暮らしていた私ですが、もっと世界が狭まった気持ちになりました。

 

私は小さい頃からおしゃべりで明るい性格だと思っていたのですが、実はそれは親や先生に心配かけたくないだけでやっていたように思います。

最近子供の頃の成績表を見たのですが、先生からの言葉には「神経質な面があります。」と書いてありました。

母親の言葉にも「心配を訴えることが多く、大丈夫だよといいきかせています。」と書いてあり、自分が思っていた自分と全然違っていたのです。

 

多分、本当は人付き合いがとても苦手だったんです。

それを大人になった時、アメリカで目の当たりにしてしまったのでした。

 

自分のことだけでもストレスなのに、ピヨ姐の子育て、日本人奥さんとの付き合い、家族ぐるみで参加しなくちゃいけないパーティ、そして何よりストレスだったのが父さんの愚痴を聞くことでした。

おかげで全クラスメイトのキャラクターを覚えてしまいました。

父さんもストレスだらけだったのでしょう。

だからなるべく聞くようにしていました。(話す時間もあまりない日々でしたが)

 

でもそのクラスで起こった出来事を聞いていると、まるで自分のことのように悔しくなるんです。

英語ができないし、父さんは男は黙ってサッポロビール(古!)な人ですから、言わなきゃなんとかならないアメリカでは主張できないアホ扱いだったと思います。

 

文句や誤解があっても言うこともできない。

日本語だって言えない性格だし、英語も話せない。

しかも私はただついてきた、いち家族。

もう毎日悔しいし、自己嫌悪。

 

半年を過ぎた頃でしょうか…。

とうとう母さんの体に異変が起き始めました。

 

夜になると器官がむせはじめ咳が止まらないのです。息ができなくらい苦しくて苦しくて…。ピヨ姐は眠っているし、父さんは勉強しているから、うるさくしてはいけないと思い、私は夜中リビングでお湯を飲みながら咳に耐えていました。

息ができなくて死ぬんじゃないか、明日病院に行こうか…毎晩思いました。

 

でも眠れないまま夜が明け始めると不思議なことに咳が止まるんです。けろっとなおるんです。

そのまま朝ごはんをつくり、父さんは車にピヨ姐を乗せて保育園に送ってから大学へいきます。

私は9時から12時まで歩いていけるところに英語を無料で教えてくれるESLがあったのでそこへ行っていました。

そしてお昼に家に戻り、ご飯を食べ、たまに日本の母に電話をし、そこから3時間眠ったあとでバスに乗ってピヨ姐の保育園にお迎えにいく。

夕方ご飯をたべて寝かせるとまた咳がはじまって朝までとまらない。

 

その生活が帰国する数ヶ月間続いたのです。

おそらくあの数ヶ月の自分は暗かったです。だってずっと睡眠不足なんだもん。

でもそんなことにも気が付きませんでした。

 

あの日々はいま思い返しても暗過ぎです。

 

ところが日本に戻り、集合住宅で暮らし始めても時々この発作のような咳がおこるようになってしまったのです。

私の性格が災いしているのか、私が非常識なのか、運が悪いのかわかりませんが、集合住宅や幼稚園のお母さん同士のトラブルが少なからずあったのが今思えば原因でした。

 

いろいろなことがたくさんあったのですが、ある時お隣さんにもっていった挨拶の菓子折りを突き返されてしまったことがきっかけで私はとうとう父さんにわがままを言って引っ越すことにしました。

 

それが今の家です。

今の家に住み始めて11年。発作は一回も起きなくなりました。

 

やはり環境は大事。

 

コツメの母さん。でした。